法務ガイドライン

概要

業務提携などの可能性を模索するにあたりライセンスの運用形態や禁止事項を整理した資料を整理しております。

一般的な禁止事項

禁止事項とその禁止事項の判断基準となる倫理的なストーリー。

センセー

人間的な価値観が希望、協力、共生、事実、法律などの倫理観などを基底とするものなのに対して、暴君的な価値観は、恐怖、対立、嘘、騙しなどを基底とするものです。
人間と暴君の行動原理は対照的なようにみえますが、両者は同じ構造をしています。
決定的に違うところは理や知恵や現状認識の不足しているところですが、複雑なありのままの社会の状態に目をそむけて矛盾に不感症になった結果、暗黒面に落ちてしまった姿なのかもしれません。
このようなことから、暗黒面に落ちないよう、希望、協力、共生、事実、倫理観を持ち続けるには、生涯を通して体系的な教養をみにつけていくことが重要なのでしょう。
教育とは先生が「先ず生きる」ために権威化してポストを利権化するためのものではなく、先ず、生徒自身の内面の種から芽が生えるよう、種を改良を促したり、種を蒔く人で無ければなりません。
「先生が先ず生きる」から「生徒が先ず生える」への変遷が教育の在り方なのでしょう。
つまり「先生」から先生への変革が必要なのでしょう。
また、生徒が自分でお金を稼げる力をつけられるよう、ロボットのような詰め込み教育だけでなく、技術開発のやり方をみにつけさせたり、コンテンツや新しいものをつくる習慣をつけさせて権利をうみだしお金にする教育をしたり、プロダクト開発の実践をしたり、チームでの開発作業の体験などまでやり、実業と教育を一致させてこそ、現実と教育を一致させることができるのでしょう。

ムラノタミ

よく業界や狭い地域の特殊さを「○○村」なんて表現をしますが、その特殊さがどこから来ているのかということを考えると、その村の人たちの都合のみで村の外と話して噛み合わない様を指すのでしょう。
同一の利害関係の人たちのみで集まるのが「村」の特徴ですが、利害という言葉は自分達の利は他人の害と表裏一体となる言葉で、村の民の意識は、村人たちの利益のために、外部から利益をぶんどってくるというものになりやすいのでしょう。
村の中を味方、それ以外を敵というような二極的な考え方となりやすいように感じます。
良く村八分という言葉がありますが、同一の利害関係者の集団からみると、自分たちの方針に従わない人は敵なのでしょう。
村というのは外部に対して閉鎖的な面もありますので、内部の意見の合わない人に対して攻撃を向けがちになり、村八分というのは、内部に近い外縁の人に向けられがちです。
そうやって、村のボスの方針に従わない人は次々と村社会より排除されるため、村はますますボスの特殊な「論理」に染まります。\n自分側の利のみを考えたフィードバックの無い論理というのはどこかで破綻します。
論理が破綻しているのに権益を守ろうとすれば暴力的になります。
その暴力が外部に向けば過激派ですし、内部に向けば内ゲバです。
人は長期的におかしな論理を押し付けられた時には、次第に考えないようになり、目の前の問題に盲目になります。
村の中で村八分を繰り返し、村人内でおかしな論理を押し付けあえば、互いに盲目になります。
民という文字は、目が潰れた人という意味ですが、ムラノタミというのは、ありもしない共通の利益を守ろうとして互いに目を潰し合っている様なのかもしれません。
村には考えのむらが必要なのでしょう。
多様性としてのむらを許容する意味でのムラ、他人の価値観や立ち位置の差異に対して目を瞑れるタミ、であることが望ましいのでしょう。

ツリビト

魚を日常的に食べている日本の文化において、釣りという言葉は身近なものですが、昔ほど実際の釣りが身近なものでなくなってきた昨今、釣りという言葉から連想するのは、ネットの釣り行為でしょうか。
ネットの釣りといえば、何かしらのインパクトのあるキーワードで相手に誤認をさせて、それが誤認であることをすぐに伝えるという「引っ掛けネタ」で読者を釣り上げるようなもので、行為としてはジョークのようなものでしょう。
ジョークに引っかかった人は、その内容が印象に残りやすいですし、コンテンツの一つの形態なのでしょう。
こういったジョークも誤認が誤認のままになって、それがデマとして広まってしまうこともありますが、デマゴークにならないように内容をよく気を付けたものであれば、行為としてはかわいいもので、そういう釣りをする人がネットを面白くしてきたところがあります。
また、インターネットという大海の中から検索エンジンで、「キーワード」をネタに希望に沿った「記事」を引っ掛けるというのも、釣り行為に近いのでしょう。
ある「キーワード」をネタにある「記事」を引っ掛け、その「記事」の内容を咀嚼して、その「記事」をキーワードにしてさらに検索エンジンで「記事」を引っ掛けるというのを繰り返していくという行為も釣りの行為に似ているものです。
ただ、検索エンジンが極めて進化している昨今において、実際の釣りのような辛抱強さを求めないという意味においては、こちらの「釣り」は大変手軽なもので似て非なるものでしょう。
こう考えていくと、ネットにおける様々な行為は手軽なものに進化した「釣りのような」もので、コンテンツを作る側からしてみると、良いネタを仕入れるためにネットで「コンテンツ」や「利用者」を釣るのは、効率が良く、気持ちも良い作業なのかもしれません。
ただ、効率や快楽を追求すると、権利への侵害につながりやすいですし、中身も薄っぺらなものとなります。
また、「コンテンツ」を釣るのも「利用者」を釣るのも行為として似ているため、たくさんの釣りをしていると、その違いに鈍感になりやすいのかもしれません。
他人の「コンテンツ」を釣り上げて利用すれば著作権侵害ですし、「利用者」を効率的に「釣り」あげるためにセンセーショナルなネタを創作すればデマゴーグとなります。
そして、何よりも創作性のないパクリやデマゴーグなどはつまらないものです。
簡単にできる行為というのは、それが犯罪などの悪い行為であっても、それをやらないようにするブレーキがかかりにくい面があります。
こういう行為の境界に鈍感になっていった結果、商用の著作物やプライバシーとして保護されているコンテンツなどを勝手に利用するような犯罪に手を染めるようになる人も多いのでしょう。
本物のコアな釣り人というのは、竹から手間をかけて、竹竿を自作するそうです。
プレスや研磨でまっすぐに加工したり、焼きをいれて強化したり、節の強度を均一にするために互い違いで組み合わせたり、して、真っ直ぐで、頑丈だけどよくしなり、軽量の竹竿を非常に時間と手間暇をかけて作るそうです。
このように、本物の釣りには、自分の道具をしっかり手間ひまかけて管理し、辛抱強く好機を待ち、好機を逃さない一瞬の勝負をするという精神鍛錬の面がありますが、そういった要素の無いネットの「釣り」はつまらないものにみえます。
また、他人の養殖池の魚を釣るような行為は言語道断でしょう。
寄せ集めのような盗作やパクリコンテンツなどは、内容の一貫性がなく、作者の根性もひん曲がったものであり、内容もへなちょこで、無駄に重複のあるようなものです。
釣りビトたるもの竹竿のような美しいものであってほしいものです。

ライター

最近はブログやSNSなどの普及により多くの人が自由に発信することができるようになり、表現の可能性がとても広がったように感じます。
その一方で、荒らしや炎上なども後を絶たず、発信力という力とうまく付き合えていないのかもしれません。
これは、例えば、車が発明された時に、事故が多発したように、まだ、社会の方が力をうまくコントロールできていないということなのかもしれません。
「ペンは剣より強し」という言葉がありますが、この元々の意味は「剣を持っていても権力を持って刑執行の書類にサインするペンを持った人には勝てない」という意味です。
ペンをライターの如く使い火を点けて回って炎上させて回るような人もいますが、火炎放射器のような使い方はこの定義に近いのでしょう。
こういう力を志向すると、あちこちで炎上させながら、炎上は力、力は正義(Right)、自分たちは権力(Right)というのような勘違いをして暴走しやすくなるのでしょう。
さしずめ、Writerならぬ、「Righter」といったところです。
現在はこの意味が「暴力より学びの方が強い」という意味に変化しましたが、現在の定義では、ペンをライトセイバーの如く振り回して切り掛かっているような感覚で暴れている様が剣で、正しく使いこなせるようになってからペンになるのかもしれません。
この言葉の定義が変遷したように、炎上というものも一過性のものとなり、力をうまくコントロールできる正しい言論がペンとなり、炎上も風化していくのかもしれません。
fighterよりWriterは強し、という流れをうまく加速していきたいものです。
火を灯すライターはlighterと書きますが、火の発明というのは、暗がりの中に明かり(light)を灯すもので人類の発展に大変に大きな力を与えたものです。
この火が人類の文明を発展させましたが、その一方で焼畑農法などにより砂漠化も促進させています。
昔の風刺画に、お金にライターで火を点けて「ほら足元が明るくなっただろう」なんていうものがありましたが、そういう無駄な使い方ではなく、知的に質の良い使い方を心掛けたいものです。

マワルヒト

自転車は、自分の足でより少ない労力で遠くに早く移動する手段として発明され、その便利さから多くの人の一つの重要な移動手段として利用されています。
足の踏み込みという直線的な運動を回転運動に変えることで、効率的な移動を実現しているのですが、グライダーなど飛行体を除けば、回転エネルギーというのは移動用の動力源としては最も効率の良い手段で、現在も我々の文明は非常に多くの場面でこの回転エネルギーに頼っています。
例えば、車のエンジンもピストン運動を回転エネルギーに変えることで実現されているという意味においては似たようなものですし、発電所も太陽光を除けば回転エネルギーに頼っています。
このサイクル的なメカニズムを表す自転車という単語が、自転車操業というようなネガティブな意味で用いられることも多くなりましたが、本来、世の中の多くのものはサイクル的なものであります。
むしろ、サイクル的なものでないものは長い時間スケールで見た時に持続不可能という意味で淘汰圧に晒されて消滅するものなのでしょう。
では、自転車操業というものが、ネガティブなものの代表例である理由はなぜなのでしょう。
それは問題がサイクル性にあるのではなく、サイクルの過程において、負債のような「クソ」が増加し続けるからでしょう。
つまり、サイクルの非サイクル性、すなわち、持続不可能性にあるということでしょう。
自転車が、「自ら転がす車」なら、悪い意味の方は、自ら転ぶ者という意味で「自転者」なのかもしれません。
環境というものを広く見た時、サイクル性とは、資源とゴミや糞尿の関係に近いでしょう。
企業の収支でいえば負債や在庫と返済の関係などでしょう。
世の中には大小様々なサイクルがありますが、様々なサイクル間でリソースの収支が発生するため、社会とは、サイクル的なものが有機的に結合しあっているものとも考えることができるのでしょう。
そして、そのサイクルの最も外周の系は太陽のような核融合エネルギーによる輻射熱や光を入力とするサイクルの系なのでしょう。
サイクルの中で量が発散しては困るものを「クソ」と定義すれば、持続可能性とは、時間変化関数であるクソの、時間に対する無限積分で記述できます。
何かの活動をすれば「クソ」は増えますが、サイクルのどこかで「クソ」を肥料にし、新しいタネを撒き、収穫を繰り返せばサイクルとしては回ります。
一方、「クソ」が増加した時、その根本原因を解決せずに、さらに増加する方向に努力すれば、「クソ」は増々増えていきます。
よく、自分で自分のしっぽを食べている蛇の絵なんかも自転車操業を象徴する絵として描かれていますが、サイクルには外部からのエネルギーがなければ回りませんから、あの蛇は縮小系です(蛇が死ななければですが。)。
外部からのエネルギーの配給が無い系も存在を続けることはできません。
すなわち、「クソ」をうまく減らしていくことや、外部からのエネルギーを効率的に「運動」エネルギーに変えられないことが悪い意味での「マワルヒト」を発生させる諸悪の根源なのでしょう。
鏡の中の自分に「クソ」を投げていても、「クソ」は減るどころか増々増えていきますし、自分と同じような境遇の者同士で食い物にしあっていても、「クソ」の投げ合いをしてもエネルギーの単なる無駄遣いで、効率は悪化の一方で、自滅への道へまっしぐらになります。
自ら転ぶ者ではなく、サイクル系を考えて、自ら転がす者になりましょう。

ミテルヒト

日本では相互監視があり、窃盗や放火などの犯罪をしないように監視、感染症を拡大させるなどのテロ行為をしないよう監視するという面で機能している場合にはよいのですが、組織や権力の不正や暴走に異を唱える人を排除するために監視するようになるとファシズムなどに暴走します。
戦時中は戦争に反対する人を監視する目的で隣組というものがありました。
世界的にも恐怖政治と監視というのは密接な関係があります。
ナチス、魔女狩り、文化大革命など監視が暴走した例はいくらでもありますが、一般論としては独裁と監視は相性が悪いといえます。
最初は街の安全・安心のために「ミテルヒト」になった人は、いつしか自分が法的機関からの摘発を逃れる安全・安心のためにミテルヒトになるのでしょう。

ハッカー

ここ十数年くらい、やたら「勝ち組」「成功者」「モテ」なる言葉が持て囃され、いかに他人から搾取するかとか、いかに得をするかとか、いかにチートするかとか、いかに有利に相手を操るかとか、いかにたくさんの性交をしたかとか、そういったことばかり考える人が増えてきたように思います。
このようなチートをしたいという人で組織的な圧力やロビイングなどの政治的手法を駆使して莫大な富を手にするような「成功」も増えているのでしょう。
マスコミではハッカーをクラッカーと同一の意味、「すなわちチートして得をしようとする人」や「技術を悪用して社会に悪さをする人」の意味で「ハッカー」という言葉を使っていました。
ハッカーとは、もともとは素晴らしい技術で他人や社会をよくするような人のことを指します。良い意味の言葉を悪い意味に置き換えていると、言葉に感化されてチートこそが素晴らしいなどと倒錯することになるのでしょう。
そういう「ハッカー」は自分自身をクラッキングして倒錯するようになった人なのかもしれませんね。

ドカンノヒト

都市に多くの人が住めるようになったのは上下水道の整備が進んだからですが、人が住むのに汚物をどのように衛生的に処理するか、安全な水を大量に運ぶか、というのは非常に重要な課題でした。
また、このような基本的なインフラが整い人が密集することで交易が活発になり、それにより様々な文化的な発展を遂げました。
ただ、最近は、「ネットで流通を繋げる」とか、「人を繋げる」とか、「情報を集約して繋げる」とか、「どこでもインターネットに繋がる」とか、過剰に繋がりを強調するマーケティングが目につきます。
繋がりの数が増えれば、もともとの繋がりが希釈しますし、リスクも一緒につながってきます。
また、通信回線はどこか知らない場所に繋がっていて盗み見されているかもしれませんし、インターネットに色々な重要な情報を乗せれば、盗み見されるリスクも増します。
私たちの使える時間は誰しも同じように流れていくものであり、貴重な資源です。
過剰な繋がりの世の中にあって、大切な繋がりを取捨選択していくことが大切なのではないでしょうか。

クミトルヒト

糞尿の回収というのは古代より都市づくりにおいて極めて重要な行為で、アーキテクトは最重要項目としてこれらを考えてきました。
糞尿の回収は、都市衛生にはもちろん不可欠なものであり、また、魚を食べた人の排泄物を肥料として撒くことは雨で流れたり人に食べられて土より失われた栄養素を土に再び戻す効果があり、このように農耕文明を維持するためにクミトリは極めて重要な働きをしていたのです。
さて、クミトルには、「相手の口にしにくい事情を汲み取る」というような使い方もあります。
気が利くというくらいのクミトリであれば円滑に社会を回す良いことだと思いますが、処理しきれないほどの事情をクミトルとどこかにまき散らすことになったりもします。本音と建前が乖離しすぎれば破綻します。
最近は、存在しない「相手の事情」をくみとる人というのもいるようですが、実のところそういった「相手の事情」とは自分自身のクソな事情だったりするのでしょう。まったくもって不誠実な話です。
そういった人の中には、回収する糞尿よりたくさんの「クソ」をネットに撒き散らしているような「クミトルヒト」というのもいるようです。困ったものです。
やはり、事情をくみ取るにせよ、誠実さがないと暗黒面におちてしまうのではないでしょうか。

リョウリニン

日本は食べ物がおいしく、海産物のような様々なうまみ成分に恵まれていることと関係があります。食べ物は毎日何度も食べますし、一生というスパンでみればおいしい料理を作る人というのは日々の暮らしを豊かにしてくれる素晴らしいものです。その一方で、日々の料理ではたくさんの生き物の命をいただいています。
詐欺的行為をするような人は、食べ物以外のものもカモ料理やら刺身やらの料理にするようですが、私たちが普段口にしている料理も「命をいただいている」という面があります。
過剰な欲望を持つあまり人をもいただくようになったのが詐欺的行為をする人たちなのではないでしょうか。
そういう人たちには人が魚や家畜と同じようなものにみえているのかもしれません。
昔、人を家畜と同じように操った731部隊というものがありました。詐欺の世界なんかでは、人を食い物にするような人を食い物にする世界というのもあるようです。
人を食い物にするような畜生には、畜生道という別の地獄があるのでしょう。獣界の食物連鎖の中に生きる人も大変そうです。

ツキビト

おしどり夫婦という言葉があるように、波長のあう夫婦がお互い励ましあい、また、助け合って生きることで人生が豊かになったりするような関係があります。
その一方でエナジーバンパイヤやサイコパスや自己愛性の変質者と呼ばれるような他人から活力など様々なものを奪すような人もいます。
プラスのものなら「ツキがよくなった」というような言い方をしますし、マイナスのものなら「悪霊に憑りつかれた」というような言い方をします。
変なものに憑りつかれると、健康も害しますし、金運も下がります。大切な関係は大切にし、憑きものは駆除するに限ります。
とかく人はその逆をやりやすく、心理学的には自分が手間をかけた人の方をかわいがる傾向があるようです。こんなに手間をかけたので見返りが欲しいと考えるのですね。株なんかでも損切りをしない人はポートフォリオがクソ株だらけになっていたりします。

時代劇で、「越後屋おぬしも悪よのお」というように大商人が悪事を企むようなストーリーがありますが、現代版の「越後屋」は、自分では何もしたくないけど、美味しいところだけを横取りしたいと、遠くから姿をみせず、虎視眈々と狙っているハイエナのような人たちの群れのことなのでしょう。
普段は正体をみせず、陰でそろばん勘定をしながら、虎視眈々と見知らぬ他人の資産を狙う企みをするような人たちがいます。
こういう人たちは現実社会では普段はおとなしい人たちですが、裏では気が大きくなり、また、自分が主導権を握る気概もない小心者のため小心者同士、多人数で群れて、陰でコソコソとバレないように不法行為をするのです。
そして、陰で多数の同じような人たちと共通の利益のために共犯関係になることで、自分たちが陰で大きな力をもっていて、また労なく益を得られる賢い集団であるという自己暗示を掛け合うため、違法活動などの暴走をしやすいのでしょう。
こういう集団はカジュアルな集り屋から、猟奇的な組織犯罪まで一足跳びにいきやすいです。
それは、越後屋のようにブレインがいるわけでもなく、多人数で正体を見せずにカジュアルに謀りごとをすることで日頃の鬱憤を晴らしている面もあるため、利益のための合理性だけでなく感情にも大きく左右され、全く統制がとれない状態であるからです。
また、利益を共通とする集団のみでこっそり群れているため正常な第三者の意見が全く入らず、内部から集団暴走を止める手段がないからです。
統制のとれていない企みごとなどは、単なる暴徒と同じですから、妖怪「企」とは、普段うちに秘めてる欲望をバレないと思って多人数の同士と集って気が大きくなったことで全開にして、猟奇的かつ自己中心的な犯罪者まで一直線に堕ちる様のことなのでしょう。
隠れてこっそりやるのは、善事の方がよいです。隠れた行為はエントロピーを増大させますから、多くの人に悪事の疑惑の目が降りかかることになるより、多くの人に善事をした可能性を感じさせた方が得です。
ある集団の誰かが悪事をした場合に、集団全体の信用が失われますが、善事の場合には、集団全体の信用が増します。
企みごと、というのが、少ない労力で大きな成果を得ることだとすれば、隠れた善事の方が、本当の意味での企みごとです。

口火

口コミと言えばマーケティングにおいても重要なものですが、これには質的なものと、量的なものがあります。
質的に良質な口コミはあまり数は多くないですが、質の良い情報に敏感な人にはダイレクトに効きます。
ポジティブな内容が多いですが、ただ、拡散性はあまりありません。見る人が限定されるからでしょう。
ただ、拡散性というのはその話題を聞いた人が何人の友達にそれを話したいかということで決まるものなので、この手の情報が拡散状態になると、スマホのように爆発的に購買に結びつくのでしょう。
また、質のよい情報は定着率が良いので、時間が経っても廃れないことが多いです。
一方のネガティヴな内容の口コミは非常に拡散性があります。
また、口コミが広がる過程において悪い話というのは誇張されたり面白おかしくされたりして、数が出る傾向にあります。家事と喧嘩は江戸の花ではないですが、こういった炎上祭りは暇な見物人を集めるだけで購買にも繋がらないですし、なかなか消えないデマなんかを大量発生させるだけで不毛であります。
差別が生まれるメカニズムもこのような口コミから発生するデマが多いです。
一番致命的なのはブランドにならないところでしょう。
「言うぞおらー」とばかりに犯罪や不正でもないようなことを面白おかしく改変して悪評を広めるような妖怪は大変迷惑なものです。
デマや差別が生まれやすい土壌は、このような誇張した無関係の他人の悪評や噂話が大好きな人間がたくさんいる場所です。
これをやる典型的な人間は、自分自身の話題に乏しいが、話の中心人物になりたい欲求の強い人です。
刺激的な話題をしたがるために、デマゴーグになることが多いのでしょう。
困ったことにこういうカジュアルなデマゴーグというのは、デマを流した罪悪感がないので、デマを流したことすら忘れて、自分が流したデマを信じて、さらに拡大したデマを流すみたいなことをします。
デマ増幅回路みたいなものですが、こういうカジュアルなデマゴーグというのは長期的に見て社会的に信用を得にくいのではないでしょうか。
本来の日本人らしさは控え目さにあったけど、でしゃばりたがる人が増えたのもメディアの影響が大きいのでしょう。
どうせ出しゃばるのなら自分のオリジナルのキャラを前面に出せばよいのだと思うのですが、話題性を求めて他人が聞きそうな話に根も葉もない話を創作するのは信用の上であまり得策でもないように思います。
ただ、デマの消火にも、こういった人たちが活躍をすることもありますので、情報を流す側の工夫でうまく付き合えることもあります。
例えが悪いですが、ウイルスの広がりやすい媒体ではワクチンの効きも良いのでしょう。

聖門

「業界人と知り合って上流階級!」「簡単に大金持ち!」「あなたも○○のようになれる!」「人を思い通りに操れる心理学」みたいな煌びやかな本やコンテンツが入門書みたいな感じで書店やネットに所狭しと並んでいます。
ああいったものは「聖なる」門なのでしょう。
実際のところああいったものは地獄への入り口だったりするわけで、運がよければ本とメルマガ代と時間の無駄くらいで済みますが、運が悪ければ詐欺の片棒やら誰かの犯罪の身代わりでお縄行きといったところでしょうか。
ホーリー(聖なる)どころか、堀(刑務所)への入り口となっては堪ったものではないですね。
自己啓発自体はよいと思いますが、ドラッカーとかの体系だった原書やら体系的なスキルを付ける専門書とかを読んだ方がよいです。カジュアルなものは所詮カジュアルですから。
ホラー小説やなにわ金融道でも観るような感覚で「聖門」を遠くから眺めている分には、「聖門」もさして害は無いかもしれませんが、人はいつも見ているものにいつの間にか染まりますから、長く見てたら、気が付いたら門の中にいたなんてことにならないように気をつけた方がいいかもしれませんね。
特別な専門性がなければ専門職としての価値は低いですし、参入障壁という意味では地道に能力を強化して差別化していく必要がありますし、人脈をみつけるにしても相手にとってもメリットがなければ相手にされないですし、安易な道などはなく、地道に能力なりキャリアを積んでいかないと、どこかで詐欺みたいなコースに堕ちてしまうものかと思います。
それと、ああいう人を食い物にする文章を書いてる作者と知り合ったところで、ロクなものではないので、君子危うきに近寄らずです。

キョギー

昔、寄生獣という漫画で、主人公の右手に寄生する獣の話がありましたが、現代の寄生獣はキョギーという他人の偽物をつくる妖怪でしょうか。
ある一次創作があって、そこから派生して沢山の二次創作が出てくるコミケのような関係は、言の葉のように葉っぱのような広がりがあるものです。両者が強化しあうのであればwin-winの関係です。
葉っぱのように陽の光からエネルギーを吸収し、自分が成長しながら、土台となる基盤や枝にもきちんと栄養を送り、そこから新しい葉っぱを産み出すエネルギーを供給し続け、全体として繁栄するのがwin-winともいえるのでしょう。
その一方で、パクリや中傷の目的で他人の創作物を奪うような行為は、元の木の幹を腐らせる意味でlose-loseの関係です。\n夢を実現するためのタネを蒔き、根を生やし、幹を育て、同時に葉が育つのが木だとすれば、虚木は、根が腐っており、強欲で、葉や幹が育たず、いくらオリジナルを越えたと強弁したところで、「夢」の中の幻の如く溶けて無くなるようなものなのでしょう。さしずめ、溶解虚木と言ったところでしょう。\n妖怪「偽木」のようなフリーライダーを排除し、ネタとなるタネを蒔き、秩序と敬意ある木と幹の関係を保ちつつ、場を発展させていくことが必要なのでしょう。
社会システムというのは、エントロピーの増大と、それを防ぐためのエネルギーとしての太陽光によって成立していますが、妖怪「偽木」はエントロピーを増大させて「砂漠化」を促進します。
私は文化的な貧困化でもある「砂漠化」を止めるためにも、エントロピーを縮小する必要があります。

カネスク

お金とは経済の血液であり、社会に必要なものです。
その主な機能性としては、交換手段、蓄積手段があります。
手段とあるように何かの目的のために使うものですが、目的を見失うと、お金を使うどころか、お金に使われることになります。
お金に使われるというと、資本家に使われるイメージがわきますが、それより、お金自体が目的となり、目的を見失い、お金の魔力に人生をコントロールされるような使われ方の方が実際的なイメージに近いのでしょう。
分不相応なお金を手に入れて、使い途がよくわからずドラッグやら怪しい投資話なんかに手を出して自滅する芸人なんかが良い例ですが、目的なき手段は身の破滅につながることも多いのでしょう。
普通の生活を送るのに必要な水準を遥かに超えて、お金が大好きな人というのは、目的などそっちのけで、外のお金の流れからお金を効率的に「掬って」蓄積することを考えますが、その流れから発生するエネルギーで何かしらの役に立つことを実現しないのであれば、単純に社会からエネルギーを掠め取っているに過ぎないのでしょう。
それは発電機のついてない水力発電のようなものかもしれませんし、水を蓄えるという意味では貯水池に近いのかもしれません。
そういう目的そっちのけで他人の金を掬うことばかり考えてるような人は、「効率」を追求して、そのうち横領や詐欺や泥棒といった犯罪も平気でやるようになりますから、こういったカネスクは常に法律のクロに近いグレーゾーンにいることになります。
他人への「救い」だとか言いながら、その人のお金を掬いとるような詐欺なんかを常習的にしているような輩に多いですが。
あなたが好きなものを挙げたときに、真っ先にお金が出てくるとしたら、妖怪「金掬」に取り憑かれていることを疑った方がよいかもしれません。\nそのうち、魂まで巣食われて、足元をすくわれることになるかもしれません。

味噌

後先考えない衝動的行動、二極思考のような極端な空間認識能力の欠如、一方的なコミュニケーション、自己同一性障害、同一のことに対する目まぐるしい感情の変化(怒り、虚しさ、寂しさ、見捨てられ感、自己否定感など)は、境界性パーソナリティ障害の症状ですが、正規と派遣、若者と年寄り、体制とルサンチマン、一人暮らしとニート、原発と自然エネルギー、普通とアスペ、ネトウヨとブサヨ、勝ち組と負け組みというように二極的な一元的な極論に走りがちな政治の世界は、ある意味において、境界性パーソナリティ障害、すなわち、ボーダーなのでしょう。
マスコミのメディア戦略研究で有名なタヴィストックの洗脳理論では、精神病治療の逆をやる(認知のエントロピーを増大させる)と健常者も精神病になり操りやすくなるということですが、これは見方を変えると精神病は感染性があるということでもあります。
社会全体が、一元的な対立状態を解消できない様は、ある意味において、社会全体が一種の精神病状態にあり、悪意でコントロールしやすい状態なのでしょう。
この社会的な病理が進行すると、本音と建前が乖離し過ぎた社会になり、事実より誰かの恣意や思惑でことが進むようになり、さらに状態が悪化すると、万人の万人による闘争状態となり、社会がカオス的となります。
最近は他人を操る心理学のテクニック本なんかが書店に並んでいますが、他人を操縦したい欲をもった人がそこかしこにいるということでしょう。
ブラック企業のように法律や人権を守らない企業が暗躍してるのも、そのような社会的な病理現象によるものでしょう。
このようなことから、Mrs.ワタナベによる為替変動より遥かに、MKウルトラ的な洗脳技術で他人を操縦したい欲をもつ隣人「MKワタナベ」の危険性の方が社会にとっての極めて大きなリスクであると考えているのです。

カミサマ

男女差というものがしばし問題となりますが、子供を産むという行為以外の部分では、ホルモン由来の性格面や見た目の面の差異があるというところが大きいのでしょう。
世界的に、男性は女性的に、女性は男性的になってる傾向はみられますし、子供を産まないという選択をされてる人も多くなっているため、男女間の差異が小さくなっている面もあります。
それでも男性ホルモンや女性ホルモンの差によって生じる身体やメンタル面の特徴の差異というものもあります。
後天的に変えられるものもありますが、変える必要のないものもありますし、何が良いとか悪いとかいうより、統計的な傾向としてメリット、デメリットを抑えておくというようなものですが、そのホルモンの違いにより生じる特徴の一つが髪の量です。
男性ホルモンが多いと髪が抜けやすいことは知られています。
ハゲという言葉は罵る言葉としても使われますが、所詮髪の毛の量の話などは、その上に空があるだけで、どうと言うことも無い話のようにみえますし、男性ホルモンがたくさんあると言うのは、男らしさの象徴でもあり、そのメリット、デメリットがそれぞれあるということに過ぎません。\n男性らしさには、性欲とバイタリティといったものがあるかと思いますが、男性ホルモン由来のエネルギーを仕事に向けるか性欲に向けるか、というバランス感覚がよければ成功に繋がりやすいかもしれません。
お坊さんが出家をする時に、頭を丸めるのは、髪型などの煩悩を持たないようにし物事に集中できるようにするためとも聞きます。
そういえば、成功している人には男性ホルモンが多そうな方が多い気もします。
進化の過程で、早いところ嫁さんをつくって、その後は男性ホルモン由来のありあまるエネルギーを仕事に向けるようになったのかもしれません。
つまり、「かみさんいるから髪要らぬ。頭丸めて神に近づく」ということなのかもしれません。
そう考えると頭の輝きも神々しくもみえてくるものです。
そういえば、私が高校生の時に、「髪が無いから(私は)カミサマ」というジョークが口癖の先生がいましたが、いつも生き生きとされており、楽しい方でした。皆さんの顔を明るくするカミサマであれば素晴らしいことです。
そのエネルギーを間違えても、お客様はカミサマとばかりに、フリーライドを要求するような方向に向けるカミサマとして、使わないようにしてもらいたいものです。
日本は、雇用体系として男性優位ですが、このエネルギーを、悪い意味でのカミサマを産み出すことに使い過ぎているようにもみえます。
フリーライドするカミサマが上流に君臨して下流から3割とかピンハネして、そこから派生したカミサマがさらに3割ピンハネしてみたいなことを繰り返していると、5次請負で顧客が払った代金の2割しか貰えないなんてことになります。
悪いカミサマが増殖し過ぎたようにもみえます。
カミサマが作る付加価値よりも吸い上げる量が多ければ悪いカミサマです。
その逆に産み出す付加価値が多ければ良いカミサマです。価値とはお金とは限りません。
生活を豊かにする全てのことでしょう。こういう良いカミサマは皆さんの顔を明るくします。
想像すると楽しくなるようなカミサマであれば、たくさん君臨して頂いてもありがたいです。
よいカミサマであれば、800万人くらいいて貰っても構いませんね。
タブーで殺伐とする社会というのは居心地の悪い暗い社会です。
陰口なんかで相互不理解が促進して分断が進みます。
タブーを深く理解してタブーでなくする社会の方が、居心地のよい明るい社会ともいえます。
カミサマとは、あなたの中にある闇を照らす光のことなのかもしれません。